浜寺公園入口前、旧26号線沿いの風景
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和30年代、浜寺公園の入口前で撮影された写真。松の枝に隠れた看板には「ゲテ風呂」の文字が見て取れる。「ゲテ風呂」とは、かつて羽衣駅周辺にあった旅館「天兆閣」の屋号であったらしい。
米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「浜寺青少年の家 周辺図」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された施設群を描いたイラストマップ。プログラム用品貸出室(浜寺青少年の家)、浴場、野外バーベキュー施設、ファイヤー場、トーテムポールなどがあった様子が伺える。
交通遊園 ゴーカートに興味津々の子供たち
年代 | 昭和41年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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遠足で交通遊園を訪れた子供たちは、ゴーカートに興味津々の様子。後ろのグループは、引率の先生ともども男性スタッフの説明に熱心に耳を傾けている。
浜寺公園「秋の交通安全運動」 岸知事のご視察
年代 | 昭和59年(1984年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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1984年、浜寺公園「秋の交通安全運動」視察のため、岸知事がヘリコプターで来園された。写真左端に見えている黄色い建物は、子ども汽車の駅として使用されていたもの。
ジャイアントスライダー建設中
年代 | 昭和60年(1985年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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開設20年を経過した浜寺公園プールでは、施設の充実を求める声にこたえ、当時、日本では20~30ヶ所程度しか設置されていなかったウォータースライダーが導入されることとなった。写真は工事中のもの。
昭和60年7月1日より「ジャイアントスライダー」としてデビューし、現在に至るまで子供たちの人気を集めている。
浜寺交通遊園開園式(航空写真)
年代 | 昭和40年5月1日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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浜寺交通遊園開園日の航空写真。昭和40年(1965年)5月1日、全国で4番目の交通遊園として公園の南端に開設された。
交通遊園は平成8年、現在の場所に移転し、平成27年(2015年)には開園50周年を迎えた。
浜寺交通遊園「おとぎの町」
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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開園当時の交通遊園は、商業地域、住居地域、工業地域をイメージしたミニチュアの建物の中に、踏切、横断歩道、陸橋を配置し、高速道路(ゴーカート)、軌道鉄道(こども汽車)を備えたミニチュアの「おとぎの町」となっており、その中で子供たちが楽しく交通ルールを学べるようになっていた。
浜寺公園航空写真(旧・羽衣青少年センター)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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運河に隣接する広大な大芝生広場は、現在はソフトボール広場・第1球技広場・第2球技広場に3分割されている。写真右手の建物は、旧・大阪府立羽衣青少年センター。羽衣青少年センターは、現在は交通遊園南西に場所を移して、営業を続けている。
浜寺公園航空写真(北児童遊戯場)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された北児童遊戯場の航空写真。南海電鉄から寄贈されたチンチン電車とプラットホーム、噴水付きの徒渉池が目を引く。
チンチン電車は既に撤去されているが、プラットホームはターザンロープの出発地点として現在も使用されている。
運河沿いの線路を走るもず号
年代 | 昭和41年(1966年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和41年4月2日から運転を開始した初代こども汽車「もず号」。開通間もない、真新しい車両に乗る子供たちの笑顔が見える。
運河沿いの園路に植えられたばかりの木々はまだ小さく、浜寺大橋のあたりまで見通すことができる。
変形大プール
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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海をイメージして作られた変形大プールの賑わいの様子。当時、プールがまだ珍しかったこともあり、プール開設翌年の昭和39年には、約74万人の入場者数を記録した。
濱寺公園 千両松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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紀州徳川侯が参勤交代の折、この樹の下で休憩したとき、家臣に「この老松を我が家に移植する者があれば、金千両を与えよう」と言ったという逸話が残されている。現存しないが、古地図から、南児童遊戯場の周辺にあったと推測される。
濱寺公園 羽衣の松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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かつて浜寺公園が誇った名松のひとつ「羽衣の松」。太い幹には、しめ縄が巻かれ、大切にされていた様子がうかがえる。
写真の「羽衣の松」は現存しないが、1978年に寄贈された「新・羽衣の松」を、こども汽車・花壇広場前駅周辺で見る事ができる。
濱寺停車場
年代 | 明治35年~36年頃 | 出典 | 「明治三十五六年頃の濵寺風景繪はがき」 |
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「浜寺駅」は、1897年(明治30年)に、 南海鉄道が堺駅 - 佐野駅(現・泉佐野駅)間で開業した際に設置された。1907年(明治40年)には、 現在の駅舎に建て替え、浜寺公園駅と改称された。
絵葉書の作成された年代と駅名の看板から、建て替え前の駅と思われる。駅名の看板の向こうには、人力車が並んでいる様子が見える。
濱寺停車場駅前道路を経て公園入口をのぞむ
年代 | 明治35~36年頃 | 出典 | 「明治三十五六年頃の濵寺風景繪はがき」 |
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建物がほとんどなく草地の広がる、明治35年頃の浜寺公園駅前通り。
平成25年4月現在、駅前の再整備が進み、その姿を大きく変えつつある。
府営公園120周年記念イベント「熱気球体験試乗」
年代 | 平成5年10月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成5年(1993年)は、明治6年(1873年)に最初の府営公園である住吉公園と浜寺公園が開設されて120年目にあたる事から、住吉・浜寺の2公園を会場として「大阪府営公園120周年記念イベント」が開催された。写真は浜寺公園で行われた、熱気球体験試乗の様子。
浜寺公園ばら庭園開園
年代 | 平成3年4月26日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成2年「国際花と緑の博覧会」を契機に、公園のリフレッシュと質の向上を目指して、ばら庭園の整備がはじめられた。
平成3年(1991年)4月26日、全国的にも珍しい和風のばら庭園として開園。
平成23年(2011年)には開園20周年を記念して、バラの原画展や記念講演など様々な記念式典が行われた。
もず号サヨナラ運転
年代 | 昭和57年7月25日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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交通遊園開園の翌年から活躍してきた子供汽車「もず号」は、昭和57年に老朽化のため引退。写真は7月25日のサヨナラ運転の様子。
後継車として、阪堺鉄道で活躍していたドイツ製蒸気機関車をモデルに作成した「浪花号」がやってきた。
第1回泉州国際市民マラソン秋篠宮殿下御観覧
年代 | 平成6年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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関西国際空港が開港された平成6年(1994年)、大浜公園をスタート・りんくう公園をゴールとする泉州国際市民マラソンの第1回大会が開催され、秋篠宮殿下御夫妻が御観覧になられた。現在、マラソンは浜寺公園がスタート地点となっている。
両殿下を始め、関係者控え室となった浜寺公園管理事務所では、公園の歴史がわかるパネルや花を飾り、お迎えした。
北児童遊戯場の「たかし丸」
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場に設置されていた船の形の遊具「たかし丸」。船名の「たかし」は「高師の浜」から名付けられた。
浜寺公園は、かつて「高師の浜」と呼ばれた白砂青松の美しい海岸で、その姿は万葉集や紀貫之の歌にも残されている。
平成23年春、北児童遊戯場のリニューアルに伴い、撤去された。
北児童遊戯場のチンチン電車
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場で、かつて子ども達の人気を集めていたチンチン電車。写真のものは撤去されたが、現在は交通遊園で、平成13年に阪堺電気軌道株式会社より寄贈されたチンチン電車を見ることができる。この電車は、平成22年、佐野工科高校のご協力により、この写真と同じ深い緑色に塗り直され、当時の姿を取り戻した。
「白砂青松の海岸」の現在
年代 | 平成23年(2011年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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「白砂青松の海岸」の写真に写っている松が、現在も第1球技広場東に残る。第二次大戦後、浜寺公園が連合軍に接収されていた時代には、住宅建設のため2000本近くの松が伐採されたが、この松は戦中戦後を生き残り、70年後の今も往時の姿を残している。
浜寺公園海水浴場
年代 | 不明 | 出典 | (財)大阪府公園協会 |
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明治39年、浜寺海水浴場開設。第二次世界大戦後、米軍接収による利用中断などもあったが、昭和37年、泉北臨海工業地帯造成のため閉鎖されるまで、白砂青松の名勝地として関西一円の人々に親しまれ、大いに賑わった。
フジカラーグランドフェスティバル
年代 | 昭和46年5月9日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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フィルムカメラ全盛期、フィルム会社と公園が共同開催する「モデル撮影会」が、浜寺をはじめ、各地の公園で開催されていた。写真は、浜寺公園で昭和46年5月9日に開催された「フジカラーグランドフェスティバル」の様子。
D51、交通遊園にきたる!
年代 | 昭和46年11月 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和46年11月、貨物機関車「D51 469」が、浜寺公園・交通遊園に搬入された時の写真。
D51 469は昭和14年に大宮工場で製造され、その後、何度かの配置換えを経て、昭和40年紀伊田辺機関区に配置された。
昭和の経済輸送の花形として大いに活躍した後、現在は交通遊園に展示され、子ども達の人気を集めている。
浜寺水練学校
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 毎日新聞社 |
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明治39年(1906年)、大阪毎日新聞社は海事思想の普及を目的に、海水浴場と「海泳練習所」を開設。
これが浜寺水練学校の前身となる。
戦火が激しくなった昭和20年(1945年)をのぞいて毎年開催され、生徒数は約37万人を超える。
100年を超える歴史は日本の水泳界を支える人材を輩出してきた。
浜寺公園プール群が完成した昭和38年(1963年)から、水練学校はプールへと会場を移す。
写真は、昭和30年(1955~1964年)代撮影されたもの。
庭球コート
年代 | 大正13年頃 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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新庭球場が大正13年(1924年)7月完成。写真は、その当時の様子。
庭球場は、コート2面、5千人収容の鉄骨スタンド。クラブハウス付きの国際規格。
浜寺海水浴場 2
年代 | 大正14年 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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明治39年(1906年)に開設された浜寺の海水浴場はその後、夜間ナイター設備完備の「夜でも泳げる海水浴場」となっていた。
資料では、大正3年(1914年)7月、海水浴場内に「海上ステージ」「海上ブランコ」「ウォーターシュート」が設置されたとなっている。
写真は、大正14年(1925年)撮影されたもの。
料亭「寿命館」
年代 | 明治時代 | 出典 | - |
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堺出身の情熱の歌人・与謝野 晶子は、明治33年(1900年)8月4日、来阪した鉄幹を、大阪北浜の平井旅館に訪ね、初めて出会う。
翌日、浜寺公園内にあった料亭「寿命館」での歌会にそろって出席し、それ以降二人の気持ちは高まり、やがて結婚。
写真は、歌会に二人で同席した料亭「寿命館」。