日本民家集落博物館 岩手の曲家移築調査資料2
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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元禄期(1688年~1704年)の建造とされている「南部の曲家」の移築前の姿。
馬の飼育が盛んだったことから、大きな厩(うまや)と母屋をカギ型に接続させた「曲家(まがりや」が多いのが、旧南部藩の民家の特徴とされている。
第38回 関西学生陸上競技対校選手権大会 開会式
年代 | 昭和36年(1958年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地陸上競技場で開催された、第38回 関西学生陸上競技対校選手権大会の様子。
この大会では、男子1部で関西大学、男子2部で甲南大学が優勝したと記録されている。
昭和37年頃の日本庭園
年代 | 昭和37年(1962年)頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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日本庭園は心字池を中心に、池の周辺を歩きながら鑑賞する回遊式の庭園として昭和37年に作られたもの。
当初は菖蒲園として整備が行われ、初夏に咲くキショウブやスイレンが人々の目を楽しませていた。
現在の日本庭園
年代 | 平成25年(2013年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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現在の日本庭園。心字池周辺のツツジ、中の島の松が大きく成長し、周囲の緑との調和を見せている。平成元年に老朽化した乱杭や護岸、石組、園路などを改修し、現在の姿となった。
服部緑地ウォーターランド オープン記念式典2
年代 | 平成9年7月11日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成9年(1997年)7月11日、服部緑地ウォーターランドのオープン記念式典の様子。
写真右手には、この年に大阪で開催された「なみはや国体」のキャラクター、旧「モッピー」(平成26年「もずやん」に改名)の像が見える。
旧プール開設式3
年代 | 昭和33年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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旧プール開設式の様子。背後には、陸上競技場のスタンドが見える。
25mプールが完成してからしばらくは、50mプールが男子プール、25mが女子プール、変形プールが児童プールとして使用された。
昭和37年4月 皇太子殿下御夫妻 日本民家集落博物館ご視察
年代 | 昭和37年4月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和37年(1962年)4月、当時の皇太子殿下ご夫妻が日本民家集落博物館を視察された際の様子。背後は、昭和36年に移築された信濃秋山の民家(国指定重要文化財)。
昭和37年4月 皇太子殿下御夫妻ご視察のお出迎え
年代 | 昭和37年4月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和37年(1962年)4月、当時の皇太子殿下ご夫妻が服部緑地を視察された際の様子。円形花壇の園路に車列が続き、沿道には両陛下を歓迎するため多くの市民が集まっている。木々がまだ成長していないため、陸上競技場のスタンドまで見通せる。
豊中市立民俗館(現・日本民家集落博物館)
年代 | 昭和33年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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日本民家集落博物館の前身、豊中市立民俗館。水力発電ダム建設のため水没の危機にあった、岐阜県白川村の合掌造り民家一棟が、関西電力の寄付により移築されたことをきっかけに、昭和31年に開館した。
服部緑地 子供汽車「こだま号」
年代 | 昭和36年3月20日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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服部緑地の子供汽車「こだま号」。レールはなく、一周800メートルのコースを走り、利用料金は1人20円であった。
昭和36年 山ケ池と子供汽車「こだま号」
年代 | 昭和36年3月20日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和36年3月20日、服部緑地 山ケ池の西側で運行を開始した、子供汽車「こだま号」。
背後には山ケ池のボートで遊ぶ人々が見える。左手奥に見えている建物は、昭和33年竣工の陸上競技場。
服部緑地音楽の森 野外音楽堂・センチュリーオーケストラハウス竣工記念公演 「森のバレエ」
年代 | 平成3年7月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地野外音楽堂とセンチュリーオーケストラハウスの竣工記念公演として、3日間開催された記念公演の一幕。
7月20日には、大阪センチュリー交響楽団と法村友井バレエ団による「森のバレエ」が開催された。
演目は、歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、ワルツ「ウィーンの森の物語」、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」など。
服部緑地音楽の森 野外音楽堂・センチュリーオーケストラハウス竣工記念公演 「音楽の森 薪能」
年代 | 平成3年7月27日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地野外音楽堂とセンチュリーオーケストラハウスの竣工記念公演として、3日間開催された記念公演の一幕。
7月27日には能楽協会大阪支部による「音楽の森 薪能」が開催され、仕舞「高砂」「花筐」「玉之段」、狂言「寝音曲」、能「羽衣」が上演された。
昭和39年の服部緑地
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年撮影の空撮写真。公園東側、北大阪急行の緑地公園駅はまだ開業しておらず、現在の緑道周辺には緑が多く残されている。
公園西側には、たくさんの田畑の中に今はない「上池」が見える。
「花の日時計」除幕式
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年5月3日、人気の男性コーラスグループ「ダークダックス」より結成10周年を記念して寄贈された「花の日時計」除幕式の様子。
見通しのきく広場だった日本庭園の日時計周辺には、見物人が押し寄せ、黒山の人だかりとなっている。
なかよし広場開設
年代 | 昭和46年(1971年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和46年5月、現在の「こどもの楽園」第2駐車場側のエリアにあった「なかよし広場」開所式の様子。
創立二十周年を記念した大阪府青年会議所からの寄付金と大阪府の予算から整備が進められ、身体障がいのある子供のための遊戯場として開設された。
東中央広場 整備中
年代 | 昭和53年(1978年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和50年に北大阪急行の「緑地公園駅」が新設され、公園東側からの来園者が大幅に増えたたため、公園の表玄関として東中央広場の整備が開始される。
かつて真珠が養殖されていたという「鴻池」を埋め立て、昭和54年には広場と噴水が完成。
計画にあった彫刻の設置は長らく実現しなかったが、広場の整備から12年後の平成3年、福岡道雄氏による噴水彫刻「白昼夢」が完成、現在の姿となる。
都市緑化植物園竣工式
年代 | 昭和58年9月22日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)9月22日、服部緑地都市緑化植物園竣工式の様子。
都市緑化植物園は、当時、市街地の緑が急速に失われつつある状況を打開するため、都市住民に対する緑化の普及、啓発、相談の場として設置された。
壇上で挨拶をしているのは、当時の大阪府北部公園事務所の下志万 嘉彦 所長。
開園直後の都市緑化植物園温室
年代 | 昭和58年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年、開園直後の都市緑化植物園・温室内の写真。
温室では、年間を通じて色鮮やかな亜熱帯の植物を観察することができ、温室栽培が好ましいツバキを展示する「カメリアルーム」も併設された。
マルハチをはじめ植物はまだ小さく若いものばかり。
フラワータワー完成
年代 | 昭和58年(1983年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)、服部緑地で「第1回全国都市緑化フェア」が開催されることになり、円形花壇・都市緑化植物園・西中央広場の整備などがすすめられた。
写真は緑化フェア開催を記念して設立された「フラワータワー」完成式の様子。
児童遊戯場
年代 | 昭和35~40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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現在の「子供の楽園」の場所にあった児童遊戯場。何度かの改修工事を経て、現在は長さ20メートルのローラースライダーを備えた複合遊具が設置され、子ども達の人気を集めている。
円形花壇彫刻群4「キリンの仔」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は撤去された作品の一つ、淀井 敏夫作「キリンの仔」。
この作品は服部緑地には現存しないが、同じ作者による構図の異なる同名作品を日比谷公園で見ることができる。
円形花壇彫刻群3「孤動」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない撤去された作品の一つで、荒木 啓作「孤動」。
円形花壇彫刻群2「昇華」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない撤去された作品の一つで、平川 正道作「昇華」。
円形花壇彫刻群1「いのち」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない、撤去された作品の一つ「いのち」。
豊中競輪場から陸上競技場への工事
年代 | 昭和33年(1958年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和25年8月16日、豊中競輪場が竣工、16日より営業を開始。
その後、世論の高まりによって昭和30年に競輪は中止、32年に競輪場が廃止され、緑地全域を健全な野外レクリエーションの場とするための整備が進められていった。
昭和33年には競輪場を陸上競技場に改装するための工事が始まる。写真はその工事の様子と思われる。
第1回全国都市緑化フェア皇太子ご夫妻視察
年代 | 昭和58年10月7日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)、服部緑地で開催された「第1回全国都市緑化フェア」を皇太子ご夫妻が視察された時の様子。写真は都市緑化植物園の温室。この後、ご夫妻は都市緑化植物園内「郷土の森」で椿の記念植樹を行われた。現在、都市緑化植物園の椿山は約450品種・1300本が見られる椿の名所となっている。
服部緑地 野外ステージ
年代 | 不明 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年4月、野外ステージ竣工。附属施設に大阪府音楽団が大阪市天王寺区より転入する。平成元年12 月「大阪センチュリー交響楽団」の発足に伴い、練習場と野外音楽堂を建設することになり、平成3年7月、現在の野外音楽堂が完成した。
昭和42年 写真コンクール応募作品 (モデル)
年代 | 昭和42年 | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和42年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和42年に服部緑地で開催された「写真コンクール」への応募作品。
昭和34年に整備された円形花壇の「皇太子殿下御結婚記念花壇」碑の前でモデル風の美女がポーズを取る。
昭和40年代 土俵
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和42年頃まで、陸上競技場東にあった土俵。大学の相撲部などが利用していたらしい。
跡地は、公園に植栽する花苗を育てる苗圃として利用されている。
山ヶ池でボートに乗る人々
年代 | 昭和42年 | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和42年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和31年(1956年)より山ヶ池で貸しボートが始まる。昭和40~50年代(1965~1984年)にかけて、大いに賑わった。
円形花壇への葉ボタンの植付け
年代 | 昭和34年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年(1959年)、当時の皇太子殿下のご結婚記念事業として花壇を整備。
当時、工費2,500万円で、回転花壇を中心とする直径約170mの大円形花壇を造成した。
写真は円形花壇への葉ボタンの植付状況。
上空から見た服部緑地周辺(2002年)
年代 | 平成14年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地はほぼ現在の姿。
昭和17年(1942年)、昭和22年(1947年)と見比べると、緑地周辺で開発が進んでいく状況がよくわかる。
平成7年(1995年)1月に発生した阪神淡路大震災を受け、服部緑地でも平成12年(2000年)度から、防災公園としての施設改修が始まる。
平成14年(2002年)度当時は、公園の出入口改修を行い、避難地としての機能充実を図っていた。
上空から見た服部緑地周辺(1947年)
年代 | 昭和22年10月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地は昭和16年(1941年)より用地買収が始められ、幹線園路・広場等の造成を進めたが、元来、防災緑地として開発されていたため、終戦とともに事業も中止され、昭和21年(1946年)3月には緑地建設公営所も廃止された。
写真は幹線園路・広場等の面影を残した昭和22年(1947年)当時の姿。終戦時に出来上がっていたものは、園路と広場ぐらい。緑地内の田畑の大部分はそのまま食糧生産に使われていた。
昭和24年(1949年)に至り、緑地整備事業が再開された。