浜寺公園入口前、旧26号線沿いの風景
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和30年代、浜寺公園の入口前で撮影された写真。松の枝に隠れた看板には「ゲテ風呂」の文字が見て取れる。「ゲテ風呂」とは、かつて羽衣駅周辺にあった旅館「天兆閣」の屋号であったらしい。
米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「304」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された22棟の建物のうちの一つ。米軍宿舎として利用されていたと思われる。
米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「浜寺青少年の家 周辺図」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された施設群を描いたイラストマップ。プログラム用品貸出室(浜寺青少年の家)、浴場、野外バーベキュー施設、ファイヤー場、トーテムポールなどがあった様子が伺える。
大阪府営 浜寺公園遊泳場パンフレット1
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和38年頃に発行された浜寺公園プールのパンフレットより。
浜寺運河の対岸はまだ更地で、泉北臨海工業地帯の造成が進められている様子が見て取れる。
大阪府営 浜寺公園遊泳場パンフレット2
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和38年頃に発行された浜寺公園プールのパンフレットより。
中心の写真には北児童遊戯場にあった噴水とチンチン電車、左側の写真には公園が進駐軍に接収されていた頃に建てられた、いわゆる「米軍ハウス」が見られる。
浜寺交通遊園開園式(航空写真)
年代 | 昭和40年5月1日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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浜寺交通遊園開園日の航空写真。昭和40年(1965年)5月1日、全国で4番目の交通遊園として公園の南端に開設された。
交通遊園は平成8年、現在の場所に移転し、平成27年(2015年)には開園50周年を迎えた。
浜寺交通遊園「おとぎの町」
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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開園当時の交通遊園は、商業地域、住居地域、工業地域をイメージしたミニチュアの建物の中に、踏切、横断歩道、陸橋を配置し、高速道路(ゴーカート)、軌道鉄道(こども汽車)を備えたミニチュアの「おとぎの町」となっており、その中で子供たちが楽しく交通ルールを学べるようになっていた。
浜寺公園航空写真(北児童遊戯場)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された北児童遊戯場の航空写真。南海電鉄から寄贈されたチンチン電車とプラットホーム、噴水付きの徒渉池が目を引く。
チンチン電車は既に撤去されているが、プラットホームはターザンロープの出発地点として現在も使用されている。
浜寺公園航空写真(公園管理事務所分室)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された浜寺公園管理事務所分室周辺の航空写真。写真の左端には平成26年に撤去された横断歩道橋が、右端には駐車場が見える。昭和45年は日本で最初の国際博覧会、日本万国博覧会が開催された年でもある。
運河沿いの線路を走るもず号
年代 | 昭和41年(1966年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和41年4月2日から運転を開始した初代こども汽車「もず号」。開通間もない、真新しい車両に乗る子供たちの笑顔が見える。
運河沿いの園路に植えられたばかりの木々はまだ小さく、浜寺大橋のあたりまで見通すことができる。
濱寺公園碑と濱寺公会堂
年代 | 不明 | 出典 | 小泉 茂樹氏 提供 絵葉書 |
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明治41年竣工の濱寺公会堂は、演説会など各種集会に適した設備があり、約600人を収容することができた。
白亜の洋館では、演劇・浄瑠璃・琵琶の演奏会などが催され、娯楽場として人気を集めていた。
交通遊園ゴーカート
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和40年頃、開設まもない交通遊園でゴーカートに乗る親子連れ。
開設当時、ゴーカートは単席(一人乗り)14台と複席(二人乗り)8台の合計22台あり、子供たちの人気を集めていた。
プール開設式
年代 | 昭和38年7月10日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成25年に開設50周年をむかえた、浜寺公園プール開設式の様子。写真はプール完成を祝して披露された、浜寺水練学校による楽水群像の演技。明治39年からの歴史を誇る浜寺水練学校は、日本のシンクロナイズドスイミングの発展に大きく寄与し、数々のオリンピック選手を輩出した。
浜寺海水浴場の賑わい
年代 | 大正~昭和初期 | 出典 | 小泉 茂樹氏提供 絵葉書 |
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人々で賑わう浜寺海水浴場の様子。当時、海水浴場は「男子水泳場」「女子水泳場」に分かれており、写真は男子水泳場のものと思われる。
右下にある星印のマークは、現在も続く浜寺水練学校を主催していた大阪毎日新聞社の当時の社章。
浜寺海水浴場「海上遊動円木」
年代 | 大正~昭和初期 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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明治39年(1906年)に開設された浜寺海水浴場では、大正3年(1914年)7月には「海上ブランコ」「ウォーターシュート」などの遊具が設けられ、人気を博していた。写真は「海上遊動円木」という遊具。
濱寺公園 千両松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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紀州徳川侯が参勤交代の折、この樹の下で休憩したとき、家臣に「この老松を我が家に移植する者があれば、金千両を与えよう」と言ったという逸話が残されている。現存しないが、古地図から、南児童遊戯場の周辺にあったと推測される。
浜寺公園ばら庭園開園
年代 | 平成3年4月26日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成2年「国際花と緑の博覧会」を契機に、公園のリフレッシュと質の向上を目指して、ばら庭園の整備がはじめられた。
平成3年(1991年)4月26日、全国的にも珍しい和風のばら庭園として開園。
平成23年(2011年)には開園20周年を記念して、バラの原画展や記念講演など様々な記念式典が行われた。
浜寺公園駅前の賑わい
年代 | 昭和39年(1964年)7月5日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年7月5日、浜寺公園プール開設翌年の浜寺公園駅前の様子。当時「東洋一の規模」とうたわれたプールで楽しむため、多くの人々が押し寄せた。
現在、浜寺公園駅前では再開発が進み、写真右側の「よしだ食堂」は平成24年8月現在、更地となっている。
その他の商店も移転・廃業が進み、当時の面影は薄れつつある。
第22回ローズカーニバル
年代 | 平成11年(1999年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成11年5月9日に開催された、第22回「浜寺ローズカーニバル」の様子。浜寺元町のだんじりが出て、勇壮な雰囲気を醸し出している。
第1回泉州国際市民マラソン秋篠宮殿下御観覧
年代 | 平成6年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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関西国際空港が開港された平成6年(1994年)、大浜公園をスタート・りんくう公園をゴールとする泉州国際市民マラソンの第1回大会が開催され、秋篠宮殿下御夫妻が御観覧になられた。現在、マラソンは浜寺公園がスタート地点となっている。
両殿下を始め、関係者控え室となった浜寺公園管理事務所では、公園の歴史がわかるパネルや花を飾り、お迎えした。
北児童遊戯場の「たかし丸」
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場に設置されていた船の形の遊具「たかし丸」。船名の「たかし」は「高師の浜」から名付けられた。
浜寺公園は、かつて「高師の浜」と呼ばれた白砂青松の美しい海岸で、その姿は万葉集や紀貫之の歌にも残されている。
平成23年春、北児童遊戯場のリニューアルに伴い、撤去された。
白砂青松の海岸
年代 | 昭和17年頃(1942年) | 出典 | 松の木会 足田 八洲雄氏提供写真 |
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白砂青松が美しい、かつての浜寺公園。昭和30年代に埋立が始まるまでは、人気の海水浴場であった。沖には白い帆を張ったヨットのようなものが見える。
当時カラー写真はまだ普及していなかったので、これは白黒写真に特殊な絵の具で着色したもの。
浜寺公園プール造成中
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和36年、「泉北臨海工業用地」の造成計画が決定され、37年より埋立が開始される。これにともない、浜寺公園海水浴場の機能が停止するため、昭和38年6月、埋め立てられた新公園地に大小7つのプールが開設された。その規模は当時「東洋一」と言われた。
浜寺公園海水浴場
年代 | 不明 | 出典 | (財)大阪府公園協会 |
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明治39年、浜寺海水浴場開設。第二次世界大戦後、米軍接収による利用中断などもあったが、昭和37年、泉北臨海工業地帯造成のため閉鎖されるまで、白砂青松の名勝地として関西一円の人々に親しまれ、大いに賑わった。
フジカラーグランドフェスティバル
年代 | 昭和46年5月9日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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フィルムカメラ全盛期、フィルム会社と公園が共同開催する「モデル撮影会」が、浜寺をはじめ、各地の公園で開催されていた。写真は、浜寺公園で昭和46年5月9日に開催された「フジカラーグランドフェスティバル」の様子。
与謝野晶子歌碑除幕式
年代 | 昭和41年7月17日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和41年、堺出身の歌人 与謝野 晶子歌碑の除幕式の様子。晶子の歌碑は堺市内で二つ目の設立で、幕を引いている女の子は晶子のお孫さん。晶子は、かつて浜寺公園にあった料亭「壽命館」での歌会で与謝野 鉄幹と出会い、後に結婚することになる。
もず号サヨナラ運転、浪花号初運転
年代 | 昭和57年 | 出典 | 大阪府都市整備部公園課 |
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昭和57年、交通遊園開園から活躍してきた子供汽車「もず号」が老朽化のため引退、宝くじ協会から寄贈を受けて製造された「浪花号」が後継車としてやってきた。
昭和20年代の浜寺公園
年代 | 昭和20~33年頃 | 出典 | 不明 |
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第二次大戦後の昭和20年~昭和33年、浜寺公園が進駐軍の家族住宅地として利用されていた頃の園内地図。
園内には映画館、学校、教会などが建てられ、進駐軍将校とその家族が生活していた。
浜寺交通遊園パンフレットー1
年代 | 昭和41年(1966年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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浜寺交通遊園は、昭和40年5月1日に「遊びながら交通道徳を身につける施設」としてオープンした。
交通遊園全体は、人口40万人規模の都市をモデルとして造られ、ゴーカートのコースは都市の中の高速道路をイメージしていた。
当時のゴーカート料金は1周・一人乗20円、子供汽車は大人片道50円・子供20円であった。
明治三十七八年戦役浜寺俘虜収容所幕営全景
年代 | 明治38年 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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1904年からの日露戦争時、捕虜となったロシア人捕虜が日本に移送され、浜寺公園にも2万8000人あまりが収容されていた。
日曜日には外出を許されたロシア人捕虜と地元の子ども達が、凧揚げやボール遊びをして遊んだり、パンの製造方法や西洋式泳法も教えてもらうなどの交流が行われていたとの記録が残っている。
2002年、これらを記念し、当時の小泉純一郎首相の揮毫による碑名文とロシア大統領・プーチン氏による寄文が刻まれた「記念碑」と「日露友好之像」が園内に建てられた。
浜寺公園海水浴場
年代 | 昭和初期 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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海水浴場は明治39年(1906年)に開設。
浜寺公園が海浜地を公園区域に編入し、供用を開始したのが、昭和4年(1929年)から。
写真タイトルが浜寺公園海水浴場となっていることから、撮影時期は昭和4年(1929年)以降と思われる。
当時の海水浴場は、他の資料によると、「水練学校」「男子水泳場」「女子水泳場」と分かれていた模様。
浜寺公園 新出入口
年代 | 昭和初期 | 出典 | - |
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燈籠を利用した公園入口が整備されている。
当時、大阪府技師であった大屋霊城氏の著書「公園及運動場」(昭和8年/1933年)に、この燈籠門と思われる構造図が掲載されている。