日本民家集落博物館 岩手の曲家移築調査資料2
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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元禄期(1688年~1704年)の建造とされている「南部の曲家」の移築前の姿。
馬の飼育が盛んだったことから、大きな厩(うまや)と母屋をカギ型に接続させた「曲家(まがりや」が多いのが、旧南部藩の民家の特徴とされている。
第38回 関西学生陸上競技対校選手権大会 開会式
年代 | 昭和36年(1958年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地陸上競技場で開催された、第38回 関西学生陸上競技対校選手権大会の様子。
この大会では、男子1部で関西大学、男子2部で甲南大学が優勝したと記録されている。
昭和37年頃の日本庭園
年代 | 昭和37年(1962年)頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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日本庭園は心字池を中心に、池の周辺を歩きながら鑑賞する回遊式の庭園として昭和37年に作られたもの。
当初は菖蒲園として整備が行われ、初夏に咲くキショウブやスイレンが人々の目を楽しませていた。
現在の日本庭園
年代 | 平成25年(2013年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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現在の日本庭園。心字池周辺のツツジ、中の島の松が大きく成長し、周囲の緑との調和を見せている。平成元年に老朽化した乱杭や護岸、石組、園路などを改修し、現在の姿となった。
服部緑地ウォーターランド オープン記念式典2
年代 | 平成9年7月11日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成9年(1997年)7月11日、服部緑地ウォーターランドのオープン記念式典の様子。
写真右手には、この年に大阪で開催された「なみはや国体」のキャラクター、旧「モッピー」(平成26年「もずやん」に改名)の像が見える。
旧プール開設式3
年代 | 昭和33年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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旧プール開設式の様子。背後には、陸上競技場のスタンドが見える。
25mプールが完成してからしばらくは、50mプールが男子プール、25mが女子プール、変形プールが児童プールとして使用された。
昭和37年4月 皇太子殿下御夫妻 日本民家集落博物館ご視察
年代 | 昭和37年4月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和37年(1962年)4月、当時の皇太子殿下ご夫妻が日本民家集落博物館を視察された際の様子。背後は、昭和36年に移築された信濃秋山の民家(国指定重要文化財)。
昭和37年4月 皇太子殿下御夫妻ご視察のお出迎え
年代 | 昭和37年4月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和37年(1962年)4月、当時の皇太子殿下ご夫妻が服部緑地を視察された際の様子。円形花壇の園路に車列が続き、沿道には両陛下を歓迎するため多くの市民が集まっている。木々がまだ成長していないため、陸上競技場のスタンドまで見通せる。
豊中市立民俗館(現・日本民家集落博物館)
年代 | 昭和33年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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日本民家集落博物館の前身、豊中市立民俗館。水力発電ダム建設のため水没の危機にあった、岐阜県白川村の合掌造り民家一棟が、関西電力の寄付により移築されたことをきっかけに、昭和31年に開館した。
服部緑地 子供汽車「こだま号」
年代 | 昭和36年3月20日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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服部緑地の子供汽車「こだま号」。レールはなく、一周800メートルのコースを走り、利用料金は1人20円であった。
昭和36年 山ケ池と子供汽車「こだま号」
年代 | 昭和36年3月20日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和36年3月20日、服部緑地 山ケ池の西側で運行を開始した、子供汽車「こだま号」。
背後には山ケ池のボートで遊ぶ人々が見える。左手奥に見えている建物は、昭和33年竣工の陸上競技場。
服部緑地音楽の森 野外音楽堂・センチュリーオーケストラハウス竣工記念公演 「森のバレエ」
年代 | 平成3年7月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地野外音楽堂とセンチュリーオーケストラハウスの竣工記念公演として、3日間開催された記念公演の一幕。
7月20日には、大阪センチュリー交響楽団と法村友井バレエ団による「森のバレエ」が開催された。
演目は、歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、ワルツ「ウィーンの森の物語」、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」など。
服部緑地音楽の森 野外音楽堂・センチュリーオーケストラハウス竣工記念公演 「音楽の森 薪能」
年代 | 平成3年7月27日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地野外音楽堂とセンチュリーオーケストラハウスの竣工記念公演として、3日間開催された記念公演の一幕。
7月27日には能楽協会大阪支部による「音楽の森 薪能」が開催され、仕舞「高砂」「花筐」「玉之段」、狂言「寝音曲」、能「羽衣」が上演された。
昭和39年の服部緑地
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年撮影の空撮写真。公園東側、北大阪急行の緑地公園駅はまだ開業しておらず、現在の緑道周辺には緑が多く残されている。
公園西側には、たくさんの田畑の中に今はない「上池」が見える。
「花の日時計」除幕式
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年5月3日、人気の男性コーラスグループ「ダークダックス」より結成10周年を記念して寄贈された「花の日時計」除幕式の様子。
見通しのきく広場だった日本庭園の日時計周辺には、見物人が押し寄せ、黒山の人だかりとなっている。
なかよし広場開設
年代 | 昭和46年(1971年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和46年5月、現在の「こどもの楽園」第2駐車場側のエリアにあった「なかよし広場」開所式の様子。
創立二十周年を記念した大阪府青年会議所からの寄付金と大阪府の予算から整備が進められ、身体障がいのある子供のための遊戯場として開設された。
東中央広場 整備中
年代 | 昭和53年(1978年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和50年に北大阪急行の「緑地公園駅」が新設され、公園東側からの来園者が大幅に増えたたため、公園の表玄関として東中央広場の整備が開始される。
かつて真珠が養殖されていたという「鴻池」を埋め立て、昭和54年には広場と噴水が完成。
計画にあった彫刻の設置は長らく実現しなかったが、広場の整備から12年後の平成3年、福岡道雄氏による噴水彫刻「白昼夢」が完成、現在の姿となる。
都市緑化植物園竣工式
年代 | 昭和58年9月22日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)9月22日、服部緑地都市緑化植物園竣工式の様子。
都市緑化植物園は、当時、市街地の緑が急速に失われつつある状況を打開するため、都市住民に対する緑化の普及、啓発、相談の場として設置された。
壇上で挨拶をしているのは、当時の大阪府北部公園事務所の下志万 嘉彦 所長。
開園直後の都市緑化植物園温室
年代 | 昭和58年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年、開園直後の都市緑化植物園・温室内の写真。
温室では、年間を通じて色鮮やかな亜熱帯の植物を観察することができ、温室栽培が好ましいツバキを展示する「カメリアルーム」も併設された。
マルハチをはじめ植物はまだ小さく若いものばかり。
フラワータワー完成
年代 | 昭和58年(1983年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)、服部緑地で「第1回全国都市緑化フェア」が開催されることになり、円形花壇・都市緑化植物園・西中央広場の整備などがすすめられた。
写真は緑化フェア開催を記念して設立された「フラワータワー」完成式の様子。
児童遊戯場
年代 | 昭和35~40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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現在の「子供の楽園」の場所にあった児童遊戯場。何度かの改修工事を経て、現在は長さ20メートルのローラースライダーを備えた複合遊具が設置され、子ども達の人気を集めている。
円形花壇彫刻群4「キリンの仔」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は撤去された作品の一つ、淀井 敏夫作「キリンの仔」。
この作品は服部緑地には現存しないが、同じ作者による構図の異なる同名作品を日比谷公園で見ることができる。
円形花壇彫刻群3「孤動」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない撤去された作品の一つで、荒木 啓作「孤動」。
円形花壇彫刻群2「昇華」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない撤去された作品の一つで、平川 正道作「昇華」。
円形花壇彫刻群1「いのち」
年代 | 昭和34年(1959年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年の設置当初、服部緑地・円形花壇には9点の彫刻があった。その後、破損の激しい彫刻が撤去され、現在は4点が展示されている。写真は、今は見ることのできない、撤去された作品の一つ「いのち」。
豊中競輪場から陸上競技場への工事
年代 | 昭和33年(1958年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和25年8月16日、豊中競輪場が竣工、16日より営業を開始。
その後、世論の高まりによって昭和30年に競輪は中止、32年に競輪場が廃止され、緑地全域を健全な野外レクリエーションの場とするための整備が進められていった。
昭和33年には競輪場を陸上競技場に改装するための工事が始まる。写真はその工事の様子と思われる。
第1回全国都市緑化フェア皇太子ご夫妻視察
年代 | 昭和58年10月7日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和58年(1983年)、服部緑地で開催された「第1回全国都市緑化フェア」を皇太子ご夫妻が視察された時の様子。写真は都市緑化植物園の温室。この後、ご夫妻は都市緑化植物園内「郷土の森」で椿の記念植樹を行われた。現在、都市緑化植物園の椿山は約450品種・1300本が見られる椿の名所となっている。
服部緑地 野外ステージ
年代 | 不明 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年4月、野外ステージ竣工。附属施設に大阪府音楽団が大阪市天王寺区より転入する。平成元年12 月「大阪センチュリー交響楽団」の発足に伴い、練習場と野外音楽堂を建設することになり、平成3年7月、現在の野外音楽堂が完成した。
昭和42年 写真コンクール応募作品 (モデル)
年代 | 昭和42年 | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和42年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和42年に服部緑地で開催された「写真コンクール」への応募作品。
昭和34年に整備された円形花壇の「皇太子殿下御結婚記念花壇」碑の前でモデル風の美女がポーズを取る。
昭和40年代 土俵
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和42年頃まで、陸上競技場東にあった土俵。大学の相撲部などが利用していたらしい。
跡地は、公園に植栽する花苗を育てる苗圃として利用されている。
山ヶ池でボートに乗る人々
年代 | 昭和42年 | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和42年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和31年(1956年)より山ヶ池で貸しボートが始まる。昭和40~50年代(1965~1984年)にかけて、大いに賑わった。
円形花壇への葉ボタンの植付け
年代 | 昭和34年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和34年(1959年)、当時の皇太子殿下のご結婚記念事業として花壇を整備。
当時、工費2,500万円で、回転花壇を中心とする直径約170mの大円形花壇を造成した。
写真は円形花壇への葉ボタンの植付状況。
上空から見た服部緑地周辺(2002年)
年代 | 平成14年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地はほぼ現在の姿。
昭和17年(1942年)、昭和22年(1947年)と見比べると、緑地周辺で開発が進んでいく状況がよくわかる。
平成7年(1995年)1月に発生した阪神淡路大震災を受け、服部緑地でも平成12年(2000年)度から、防災公園としての施設改修が始まる。
平成14年(2002年)度当時は、公園の出入口改修を行い、避難地としての機能充実を図っていた。
上空から見た服部緑地周辺(1947年)
年代 | 昭和22年10月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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服部緑地は昭和16年(1941年)より用地買収が始められ、幹線園路・広場等の造成を進めたが、元来、防災緑地として開発されていたため、終戦とともに事業も中止され、昭和21年(1946年)3月には緑地建設公営所も廃止された。
写真は幹線園路・広場等の面影を残した昭和22年(1947年)当時の姿。終戦時に出来上がっていたものは、園路と広場ぐらい。緑地内の田畑の大部分はそのまま食糧生産に使われていた。
昭和24年(1949年)に至り、緑地整備事業が再開された。
一之橋竣工式
年代 | 大正13年9月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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大正13年9月、一之橋竣工式の様子。大正末期から昭和初期にかけ、滝見橋・紅葉橋・夫婦橋・落合橋・大門橋などが次々と竣工し、公園の整備が進められていった。
みのお大滝
年代 | 不明 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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箕面公園は明治31年(1898年)開設。
今からおよそ1300年前頃、「役の小角(えんのおづぬ)」という修験者が山の谷の大滝で荒行をして、今の箕面の滝と龍安寺の基を開いた。
箕面山は明治20年(1887年)頃より、既に公園と俗称され、遠近の人々の来訪者も多かった。
高さ30mより落下する大滝の景観や巨岩の立ち並ぶ渓谷、渓流の美しさが当時から多くの人に親しまれ、時に紅葉の季節は今でも滝道が人で埋まるほどである。
一の橋
年代 | 不明(昭和初期) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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箕面公園の玄関口である「一の橋」。昭和4年(1929年)、大阪府土木部により架けられた。
現在の「一の橋」は昭和57年(1982年)に改修された。
箕面昆虫館(初代)
年代 | 昭和28年頃 | 出典 | 「現代の公園№18」1997年 財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和28年4月「みのお観光博覧会」が開催された時に建てられた、木造平屋建ての初代箕面昆虫館。
箕面での昆虫採集は歴史が古く、明治初期からイギリス人やドイツ人の昆虫学者が活躍し、数々の新種が発見された。
野口英世博士像
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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箕面公園整備中の様子。写真の右上には、昭和30年に建立された野口英世博士の銅像が見える。
この像は大正4年、15年振りにアメリカから帰国した博士が、親孝行のため母親と共に箕面を訪れたことにちなんで建立された。
中央広場整備中
年代 | 平成10年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成10年度に開始された中央広場整備工事の様子。広場のシンボルとなっている時計塔は、まだ設置されていない。
中央広場は平成13年3月に開設。夏場には、広場の中央にある噴水に大勢の子供たちが集まり、賑やかな歓声を響かせている。
第一野球場・陸上競技場、完成直後の様子
年代 | 昭和60年(1985年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和60年、第一野球場と陸上競技場の完成直後の写真。
平成3年に第一野球場のスタンド・スコアボードと陸上競技場スタンドが完成し、現在の姿となる。
写真中央、植えられたばかりのケヤキ通りの木々は、現在は大きく成長し、秋には紅葉が美しい。
なみはや国体・高円宮両殿下ご視察
年代 | 平成9年10月27日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成9年(1997年)に開催された第52回国民体育大会「なみはや国体」では、寝屋川公園が軟式野球競技の会場となり、ご来賓として高円宮両殿下がご来園になられた。
上空から見た寝屋川公園周辺(2001年)
年代 | 平成13年2月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和53年(1978年)より本格的な整備が始まる。
昭和57年(1982年)より一部供用開始を皮切りに、順次整備が進められた。
平成13年(2001年)3月に、中央広場(1.5ha)が追加開設されるが、写真はこの中央広場を造成中の平成13年(2001年)2月に撮影したもの。
この当時で、現在の寝屋川公園の全体がほぼ整備されている。この後テニスコート2面が追加開設されている。
現在は開通している第2京阪道路は、姿も形もない状況がよくわかる。
クィーンズランド庭園 開園式-2
年代 | 平成3年9月10日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成2年「国際花と緑の博覧会」においてオーストラリア・クィーンズランド州より出展され、グランプリを受賞した庭園は、博覧会終了後に山田池公園に移設され、「クィーンズランド庭園」として開園。写真は、平成3年9月10日に行われた開園記念式典の様子。
クィーンズランド庭園 開園式-3
年代 | 平成3年9月10日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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山田池公園クィーンズランド庭園開園記念式典で祝辞を述べる、クィーンズランド州政府駐日主席代表、ジョン・ノーマン・ケニー氏。
出屋敷遺跡発掘調査
年代 | 昭和54年~55年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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山田池公園造成地内の道路建設予定地は、弥生時代の集落跡「出屋敷遺跡」の中にあったことから、枚方市文化財研究調査会による発掘調査が行われた。
調査の結果、弥生時代の住居跡や、弥生時代末期~古墳時代前期にかけての土師器片、古墳時代の須恵器などが多数出土した。現在は北地区の展望広場周辺に遺跡の解説看板がある。
写真は昭和54~55年頃に行われた発掘の様子。
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年代 | 2rand[0,1,1] | 出典 | https://pills2sale.com/# |
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山田池公園クィーンズランドガーデン研修風景
年代 | H10年頃 | 出典 | - |
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平成9年に完成したクィーンズランドガーデンは、平成8年花と緑の博覧会で、オーストラリアが出展したクィーンズランド庭園を移設したもの。オーストラリアの固有樹木が多く含まれるため、その管理についての研修が行われた。
深北緑地 湛水状況
年代 | 平成16年10月21日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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深北緑地は、寝屋川が一定の水位を超えた際、園内に水を溜める事で市街地への被害を抑える、多目的遊水地としての機能を持つ。
園内はABCの3つのゾーンに分かれていて、最大で146㎥の水を貯溜する事ができる。
写真は平成16年10月21日、台風23号の被害を受け、寝屋川が越流した際の様子。Cゾーンまで水が入ったのは、平成11年8月に続き、この時で2回目。
「恐竜広場」造成中
年代 | 平成3年10月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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深北緑地開設前の「恐竜広場」。子供に人気の恐竜の滑り台が見える。
洪水時、公園に水が貯留された際には、恐竜の頭は水面から出て、水中を泳いでいるように見えるよう設計されている。
恐竜のモデルはアパトサウルス(別名プロントサウルス・雷竜)。
久宝寺緑地・1969年頃の航空写真
年代 | 昭和44年(1969年)頃 | 出典 | 1969「大阪の公園緑地」大阪府土木部公園課 |
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建設中の中央環状線を挟んだ園地のほとんどは、まだ緑の田畑である。
久宝寺緑地は昭和42年、38.23haの区域について事業決定が行われ、昭和44年4月から整備が開始された。
久宝寺緑地プール
年代 | 昭和54年7月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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プール中央のヤシの木は、今も変わらない久宝寺緑地プールのシンボル。
久宝寺緑地のプールは昭和46年開設。ピーク時の昭和53年には41万5000人の入場者数があった。
上空から見た久宝寺緑地周辺(1961年)
年代 | 昭和36年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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四大緑地の一つとして昭和16年(1941年)に計画決定されると同時に、事業決定もなされ、第二次世界大戦の戦時防空緑地となった。
戦後、昭和21年(1946年)の「自作農創設特別措置法」の制定により、旧耕作者に緑地の全地域が返還された。
昭和42年(1967年)より、再び事業化に着手するが、写真は着工前の昭和36年(1961年)当時の久宝寺緑地の姿。のどかな田園風景が広がる。
南側に、現在のJR関西本線(大和路線)の久宝寺駅があるのがわかる。
上空から見た久宝寺緑地周辺(1967年)
年代 | 昭和42年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和39年(1964年)久宝寺緑地は府道中央環状線の計画に伴い、緑地区域から道路部分を除いた。
写真は、その後、昭和42年(1967年)に一部区域を事業決定し、用地買収に着手した当時のもの。
中央環状線が整備されつつあるのがわかる。また緑地周辺、特に北側(東大阪市域側)での開発が進んでいるのがわかる。
上空から見た久宝寺緑地周辺(1985年)
年代 | 昭和60年 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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プールや野球場などの運動施設や駐車場などが出来上がっているのがわかる。
写真は、昭和60年(1985年)撮影されたもの。
緑地の南西部は、現在では人工芝のテニスコート6面であるが、当時はアンツーカーコート2面とバレーコート2面であったのが見てとれる。
枚岡公園・1969年頃の航空写真
年代 | 昭和44年(1969年)頃 | 出典 | 1969「大阪の公園緑地」大阪府土木部公園課 |
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サクラが満開となっている桜広場の南側、白い屋根の建物は、宿泊施設・食堂として使われていた「レクレーションハウス」。
中央の白い道は国道308号線で、これより西側は植栽されて間もないのか、緑がまばら。
森のおもちゃ箱
年代 | 平成16年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成17年にリニューアルされた「森のおもちゃ箱」の改修工事前の姿。写真の中ほどには、平成23年度で営業を終了したプールが見える。
枚岡梅林の賑わい
年代 | 昭和55年(1980年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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初春の枚岡梅林で、一足早い春を楽しむ人々の姿。明治4年、社寺改革による神仏分離で廃寺となった神護寺跡地に、地元有志によって整備された枚岡梅林は大正初年、大阪の実業家 天野 弥三郎らの手によって整備拡張され、名勝となるに至った。
昭和13年より公園の一部となり、早春には大勢の観梅客が訪れる。
大阪府営公園写真コンクール応募作品(枚岡公園)
年代 | 昭和57年(1982年) | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和57年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和57年、財団法人 大阪府公園協会創立25周年を記念して実施された「大阪府営公園の写真コンクール」への応募作品。
枚岡公園の満開の梅林が撮影の舞台となっている。
昭和8年頃の住之江公園
年代 | 昭和8年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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住之江公園は、住吉公園が南海鉄道の前身である阪堺鉄道の敷設や、国道26号の改修により、公園に設置していた運動場の廃止などを余儀なくされ、その代償として作られた。
大正15年(1926年)に用地買収を完了、昭和2年(1927年)から整備に着手し、当時最も斬新な都市公園として昭和5年(1930年)に開設した。
写真は開設後3年を経た昭和8年(1933年)頃の公園の様子。野球場東側から公園を望む。
府営公園120周年記念イベント「住吉公園ラジオ塔除幕式」
年代 | 平成5年10月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成5年(1993年)「大阪府営公園120周年記念イベント」の一環として行われた「ラジオ塔除幕式」の様子。
住吉公園のラジオ塔は昭和8年に設置され60年間親しまれてきたが、老朽化のため、住吉公園開設120年を期に新しく建て替えられた。
現在は一般の放送は流れていないが、早朝にはラジオ体操の放送が流され、多くの方の健康づくりに一役買っている。
住吉大社境内地公園化についての通達書
年代 | 明治6年8月 | 出典 | 寺田家文書(大阪市史編纂所寄託) |
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大阪市史編纂所で保管されている、住吉大社境内の一部を公園にした旨の通達書。
明治6年「太政官布達第16号」により、大阪府では四天王寺・住吉神社・箕面山・浜寺が公園地に選ばれ、住吉大社境内地は一度は全域が公園指定を受ける。
その後、公園地と社域を分離する作業が進められ、明治8年、二町一反一畝だけが境内地として返還される事になる。
明治6年「公園地規則」1
年代 | 明治6年9月 | 出典 | 「公園地規則」住吉大社 |
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明治6年、「太政官布達第16号」により、大阪府では四天王寺・住吉神社・箕面山の3地区が公園地に選ばれ、同年8月、第1番目の府営公園として住吉公園が開設される。
写真は大阪府より明治6年9月に公布された「公園地規則」の一部で、公園管理に関する規則が記載されている。(住吉大社保管)
高燈籠 2
年代 | 明治時代 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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鎌倉時代に創建された日本最古の灯台とされる。
夜間航行する船が方向を見失った時に、住吉大神に祈ると、この灯篭の火が煌々と輝いたと言われ、船の目印になったとされている。
大泉緑地・1969年頃の航空写真
年代 | 昭和44年(1969年)頃 | 出典 | 1969「大阪の公園緑地」大阪府土木部公園課 |
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昭和44年、本格的な整備事業が開始された頃の大泉緑地航空写真。
北側の長細い池が大泉池、その東側が頭泉池(かしらいずみいけ)、南西に見えるのは加呂登池(かろといけ)。
1973年の航空写真
年代 | 昭和48年(1973年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和47年に、児童遊戯場・水流・加呂登池・噴水・駐車場を含む緑地の一部30haが開設された翌年の航空写真。大泉池の北部・東部は整備が進んでおらず、多くの田畑が残っている。
上空から見た大泉緑地
年代 | 昭和52年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和52年(1977年)頃の大泉緑地。
花壇・双池橋が完成し、大泉池の東側の護岸改修に乗りだした頃と思われる。
野球場・中央休憩所を整備する以前の姿。
昭和49年(1974年)に完成した、今は無くなっている「盲人コーナー」が、緑地南西部の加呂登池の南にあるのが見てとれる。
現在では14面のテニスコートになっているところが、当時はまだ球技広場であったことがわかる。
1972年の航空写真
年代 | 昭和47年(1972年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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大泉緑地は、昭和44年(1969年)から本格的な整備を開始。加呂登池や中央環状線沿いの入口付近・芝生広場の整備が進み、公園南部は現在に近い形になっている。園内の草木がまだ十分育っていないため、白っぽい地表が目立つ。
金岡地区児童遊戯場
年代 | 昭和52年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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金岡地区児童遊戯場(現在ではわんぱくランド)で遊ぶ子供達。
大泉緑地は、昭和47年(1972年)に、金岡地区児童遊戯場、水流、加呂登池周辺の約30haを開設。
その後、順次開設して、昭和52年(1977年)当時は、現在の開設区域の8割にあたる81haを開設していた。
金岡地区児童遊戯場は、平成3年(1991年)にリニューアルし、わんぱくランドとなった。
金岡口噴水
年代 | 昭和48年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和47年(1972年)、最初に金岡口付近の約30haを開設。その中心にあったのがこの噴水。
写真は、その翌年の昭和48年(1973年)頃の様子。当時は、園路の舗装面と噴水の間に柵を設けていなかったがその後、噴水の周りに柵を設ける。
大阪府営公園写真コンクール応募作品「休日を楽しむ人々」
年代 | 昭和57年(1982年) | 出典 | 「写真コンクール応募作品 昭和57年」(財)大阪府公園協会 |
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昭和57年、財団法人 大阪府公園協会・創立25周年記念事業の一つとして、大阪府営公園の写真コンクールを実施、325名より894点の応募があった。
写真は「日本報道写真連盟賞」を受賞した「休日を楽しむ人々」4枚組写真の一枚。前年(昭和56年)に完成したばかりの中央休憩所が見える。
国際青少年年「ウッドヴィレッジ」
年代 | 昭和60年(1985年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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1985年が、国連により「国際青少年年」に指定された事を記念して、現在の冒険ランド周辺に「ウッドヴィレッジ」が整備された。
同年には、海外留学生と地元学生の交流事業も行われた。現在、「ウッドヴィレッジ」があった場所には大きな木製遊具が設置され、昔と変わらず、子ども達の人気を集めている。
かきつばた園開園
年代 | 昭和61年(1986年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和61年(1986年)5月1日、大泉緑地では、15品種1万株を集めた「かきつばた園」を開園。園芸品種を集めたかきつばた園は全国的にも珍しいものであった。
園内の風車は、昭和初期まで広く利用されていた「堺の風車」にちなんで設置されたもの。
当初計画では、他で利用していた風車を譲ってもらう予定であったが、良い状態のものが残っていなかったため、新しく作成する事になった。
第5回 石川今昔フェスティバル
年代 | 平成5年7月24日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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公園開設前の平成5年に開催された「第5回 石川今昔フェスティバル」で、魚のつかみ取り大会に参加する子供たち。
石川河川公園オープン記念
年代 | 平成7年4月23日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成7年4月23日、16番目の府営公園となる石川河川公園のオープン記念イベントが行われ、アドバルーンの下で花苗と花土プレゼントが行われた。
浜寺公園入口前、旧26号線沿いの風景
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和30年代、浜寺公園の入口前で撮影された写真。松の枝に隠れた看板には「ゲテ風呂」の文字が見て取れる。「ゲテ風呂」とは、かつて羽衣駅周辺にあった旅館「天兆閣」の屋号であったらしい。
米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「浜寺青少年の家 周辺図」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された施設群を描いたイラストマップ。プログラム用品貸出室(浜寺青少年の家)、浴場、野外バーベキュー施設、ファイヤー場、トーテムポールなどがあった様子が伺える。
交通遊園 ゴーカートに興味津々の子供たち
年代 | 昭和41年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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遠足で交通遊園を訪れた子供たちは、ゴーカートに興味津々の様子。後ろのグループは、引率の先生ともども男性スタッフの説明に熱心に耳を傾けている。
浜寺公園「秋の交通安全運動」 岸知事のご視察
年代 | 昭和59年(1984年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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1984年、浜寺公園「秋の交通安全運動」視察のため、岸知事がヘリコプターで来園された。写真左端に見えている黄色い建物は、子ども汽車の駅として使用されていたもの。
ジャイアントスライダー建設中
年代 | 昭和60年(1985年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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開設20年を経過した浜寺公園プールでは、施設の充実を求める声にこたえ、当時、日本では20~30ヶ所程度しか設置されていなかったウォータースライダーが導入されることとなった。写真は工事中のもの。
昭和60年7月1日より「ジャイアントスライダー」としてデビューし、現在に至るまで子供たちの人気を集めている。
浜寺交通遊園開園式(航空写真)
年代 | 昭和40年5月1日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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浜寺交通遊園開園日の航空写真。昭和40年(1965年)5月1日、全国で4番目の交通遊園として公園の南端に開設された。
交通遊園は平成8年、現在の場所に移転し、平成27年(2015年)には開園50周年を迎えた。
浜寺交通遊園「おとぎの町」
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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開園当時の交通遊園は、商業地域、住居地域、工業地域をイメージしたミニチュアの建物の中に、踏切、横断歩道、陸橋を配置し、高速道路(ゴーカート)、軌道鉄道(こども汽車)を備えたミニチュアの「おとぎの町」となっており、その中で子供たちが楽しく交通ルールを学べるようになっていた。
浜寺公園航空写真(旧・羽衣青少年センター)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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運河に隣接する広大な大芝生広場は、現在はソフトボール広場・第1球技広場・第2球技広場に3分割されている。写真右手の建物は、旧・大阪府立羽衣青少年センター。羽衣青少年センターは、現在は交通遊園南西に場所を移して、営業を続けている。
浜寺公園航空写真(北児童遊戯場)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された北児童遊戯場の航空写真。南海電鉄から寄贈されたチンチン電車とプラットホーム、噴水付きの徒渉池が目を引く。
チンチン電車は既に撤去されているが、プラットホームはターザンロープの出発地点として現在も使用されている。
運河沿いの線路を走るもず号
年代 | 昭和41年(1966年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和41年4月2日から運転を開始した初代こども汽車「もず号」。開通間もない、真新しい車両に乗る子供たちの笑顔が見える。
運河沿いの園路に植えられたばかりの木々はまだ小さく、浜寺大橋のあたりまで見通すことができる。
変形大プール
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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海をイメージして作られた変形大プールの賑わいの様子。当時、プールがまだ珍しかったこともあり、プール開設翌年の昭和39年には、約74万人の入場者数を記録した。
濱寺公園 千両松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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紀州徳川侯が参勤交代の折、この樹の下で休憩したとき、家臣に「この老松を我が家に移植する者があれば、金千両を与えよう」と言ったという逸話が残されている。現存しないが、古地図から、南児童遊戯場の周辺にあったと推測される。
濱寺公園 羽衣の松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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かつて浜寺公園が誇った名松のひとつ「羽衣の松」。太い幹には、しめ縄が巻かれ、大切にされていた様子がうかがえる。
写真の「羽衣の松」は現存しないが、1978年に寄贈された「新・羽衣の松」を、こども汽車・花壇広場前駅周辺で見る事ができる。
濱寺停車場
年代 | 明治35年~36年頃 | 出典 | 「明治三十五六年頃の濵寺風景繪はがき」 |
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「浜寺駅」は、1897年(明治30年)に、 南海鉄道が堺駅 - 佐野駅(現・泉佐野駅)間で開業した際に設置された。1907年(明治40年)には、 現在の駅舎に建て替え、浜寺公園駅と改称された。
絵葉書の作成された年代と駅名の看板から、建て替え前の駅と思われる。駅名の看板の向こうには、人力車が並んでいる様子が見える。
濱寺停車場駅前道路を経て公園入口をのぞむ
年代 | 明治35~36年頃 | 出典 | 「明治三十五六年頃の濵寺風景繪はがき」 |
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建物がほとんどなく草地の広がる、明治35年頃の浜寺公園駅前通り。
平成25年4月現在、駅前の再整備が進み、その姿を大きく変えつつある。
府営公園120周年記念イベント「熱気球体験試乗」
年代 | 平成5年10月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成5年(1993年)は、明治6年(1873年)に最初の府営公園である住吉公園と浜寺公園が開設されて120年目にあたる事から、住吉・浜寺の2公園を会場として「大阪府営公園120周年記念イベント」が開催された。写真は浜寺公園で行われた、熱気球体験試乗の様子。
浜寺公園ばら庭園開園
年代 | 平成3年4月26日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成2年「国際花と緑の博覧会」を契機に、公園のリフレッシュと質の向上を目指して、ばら庭園の整備がはじめられた。
平成3年(1991年)4月26日、全国的にも珍しい和風のばら庭園として開園。
平成23年(2011年)には開園20周年を記念して、バラの原画展や記念講演など様々な記念式典が行われた。
もず号サヨナラ運転
年代 | 昭和57年7月25日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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交通遊園開園の翌年から活躍してきた子供汽車「もず号」は、昭和57年に老朽化のため引退。写真は7月25日のサヨナラ運転の様子。
後継車として、阪堺鉄道で活躍していたドイツ製蒸気機関車をモデルに作成した「浪花号」がやってきた。
第1回泉州国際市民マラソン秋篠宮殿下御観覧
年代 | 平成6年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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関西国際空港が開港された平成6年(1994年)、大浜公園をスタート・りんくう公園をゴールとする泉州国際市民マラソンの第1回大会が開催され、秋篠宮殿下御夫妻が御観覧になられた。現在、マラソンは浜寺公園がスタート地点となっている。
両殿下を始め、関係者控え室となった浜寺公園管理事務所では、公園の歴史がわかるパネルや花を飾り、お迎えした。
北児童遊戯場の「たかし丸」
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場に設置されていた船の形の遊具「たかし丸」。船名の「たかし」は「高師の浜」から名付けられた。
浜寺公園は、かつて「高師の浜」と呼ばれた白砂青松の美しい海岸で、その姿は万葉集や紀貫之の歌にも残されている。
平成23年春、北児童遊戯場のリニューアルに伴い、撤去された。
北児童遊戯場のチンチン電車
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場で、かつて子ども達の人気を集めていたチンチン電車。写真のものは撤去されたが、現在は交通遊園で、平成13年に阪堺電気軌道株式会社より寄贈されたチンチン電車を見ることができる。この電車は、平成22年、佐野工科高校のご協力により、この写真と同じ深い緑色に塗り直され、当時の姿を取り戻した。
「白砂青松の海岸」の現在
年代 | 平成23年(2011年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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「白砂青松の海岸」の写真に写っている松が、現在も第1球技広場東に残る。第二次大戦後、浜寺公園が連合軍に接収されていた時代には、住宅建設のため2000本近くの松が伐採されたが、この松は戦中戦後を生き残り、70年後の今も往時の姿を残している。
浜寺公園海水浴場
年代 | 不明 | 出典 | (財)大阪府公園協会 |
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明治39年、浜寺海水浴場開設。第二次世界大戦後、米軍接収による利用中断などもあったが、昭和37年、泉北臨海工業地帯造成のため閉鎖されるまで、白砂青松の名勝地として関西一円の人々に親しまれ、大いに賑わった。
フジカラーグランドフェスティバル
年代 | 昭和46年5月9日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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フィルムカメラ全盛期、フィルム会社と公園が共同開催する「モデル撮影会」が、浜寺をはじめ、各地の公園で開催されていた。写真は、浜寺公園で昭和46年5月9日に開催された「フジカラーグランドフェスティバル」の様子。
D51、交通遊園にきたる!
年代 | 昭和46年11月 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和46年11月、貨物機関車「D51 469」が、浜寺公園・交通遊園に搬入された時の写真。
D51 469は昭和14年に大宮工場で製造され、その後、何度かの配置換えを経て、昭和40年紀伊田辺機関区に配置された。
昭和の経済輸送の花形として大いに活躍した後、現在は交通遊園に展示され、子ども達の人気を集めている。
浜寺水練学校
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 毎日新聞社 |
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明治39年(1906年)、大阪毎日新聞社は海事思想の普及を目的に、海水浴場と「海泳練習所」を開設。
これが浜寺水練学校の前身となる。
戦火が激しくなった昭和20年(1945年)をのぞいて毎年開催され、生徒数は約37万人を超える。
100年を超える歴史は日本の水泳界を支える人材を輩出してきた。
浜寺公園プール群が完成した昭和38年(1963年)から、水練学校はプールへと会場を移す。
写真は、昭和30年(1955~1964年)代撮影されたもの。
庭球コート
年代 | 大正13年頃 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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新庭球場が大正13年(1924年)7月完成。写真は、その当時の様子。
庭球場は、コート2面、5千人収容の鉄骨スタンド。クラブハウス付きの国際規格。
浜寺海水浴場 2
年代 | 大正14年 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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明治39年(1906年)に開設された浜寺の海水浴場はその後、夜間ナイター設備完備の「夜でも泳げる海水浴場」となっていた。
資料では、大正3年(1914年)7月、海水浴場内に「海上ステージ」「海上ブランコ」「ウォーターシュート」が設置されたとなっている。
写真は、大正14年(1925年)撮影されたもの。
料亭「寿命館」
年代 | 明治時代 | 出典 | - |
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堺出身の情熱の歌人・与謝野 晶子は、明治33年(1900年)8月4日、来阪した鉄幹を、大阪北浜の平井旅館に訪ね、初めて出会う。
翌日、浜寺公園内にあった料亭「寿命館」での歌会にそろって出席し、それ以降二人の気持ちは高まり、やがて結婚。
写真は、歌会に二人で同席した料亭「寿命館」。
蜻蛉池公園「水と緑の音楽広場」起工式-1
年代 | 平成5年6月10日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成5年6月10日に行われた蜻蛉池公園「水と緑の音楽広場」起工式の様子。
カラフルな花を全身にまとったクジャクのトピアリーが、式典参列者を出迎えている。
蜻蛉池公園「水と緑の音楽広場」起工式-3
年代 | 平成5年6月10日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成5年6月10日に行われた蜻蛉池公園「水と緑の音楽広場」起工式の様子。
「水と緑の音楽広場」は音楽にご造詣の深い皇太子殿下のご結婚を記念して整備されたもので、音楽イベントが開催できるステージ周辺では「皇太子殿下御結婚記念の森」への記念植樹が行われた。
蜻蛉池公園ポケット広場【2014年】
年代 | 平成26年(2014年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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2014年(平成26年)11月に開設20周年をむかえた、蜻蛉池公園ポケット広場。
大きく成長した木々の緑を背景に、色とりどりのバラが美しく映える。
1996年 開園2年目のバラ園
年代 | 平成8年5月27日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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1994年(平成6年)11月1日に開設されたポケット広場は、2014年(平成26年)開設20周年を迎える。
写真は開設2年目に撮影されたもので、ガゼボの周囲に植えられたバラはまだ小さく、純白の門と水色のガゼボが一際目を引く。
第23回 全国育樹祭-1
年代 | 平成11年10月31日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成11年10月31日、蜻蛉池公園で開催された第23回 全国育樹祭の様子。現在の「大芝生広場」が会場となった。
第23回 全国育樹祭-3
年代 | 平成11年10月31日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成11年10月31日、蜻蛉池公園で開催された第23回 全国育樹祭の様子。岸和田市内の各町のだんじりが勇壮な姿で来場者をもてなした。
第23回 全国育樹祭-4
年代 | 平成11年10月31日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成11年10月31日、蜻蛉池公園で開催された第23回 全国育樹祭のフィナーレ。盛大に花火が打ち上げられ、式典を締めくくった。
「トンボの彫刻」設置
年代 | 平成5年4月16日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成5年、蜻蛉池公園のシンボル「トンボの彫刻」が、「子供の国」に設置されているところ。
平成3年開設の「子供の国」は、まだ整備途中で、左手には工事車両が、右手にはチョウの遊具が見える。
昭和61年 岸和田市バラ園(緑と太陽の丘)
年代 | 昭和61年(1986年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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現在の蜻蛉池公園「水と緑の音楽広場」のエリアにあった、岸和田市「緑と太陽の丘」のバラ園。
毎年5月に「バラ祭り」を行うなど、長らく市民に親しまれてきたバラ園は、大阪府営公園 蜻蛉池公園となった今も、バラの名所として賑わいを見せている。
ラクウショウの並木道
年代 | 平成11年8月11日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成11年10月開催の第23回 全国育樹祭のため、会場となった大芝生広場を中心に、園内の整備がすすめられた。
歩道橋へ続く園路に植栽されたラクウショウは、公益財団法人 黒田緑化事業団より寄贈されたもの。
「コスモスの丘」整備中
年代 | 平成11年8月11日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成11年10月開催の第23回全国育樹祭に向け、「コスモスの丘」周辺の整備が進められている様子。
育樹祭では満開のコスモスでゲストをお迎えした花壇は、現在はシバザクラの名所として人々の目を楽しませている。
「緑と太陽の丘」バラ園
年代 | 平成3年(1991年)5月19日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和52年5月、岸和田市により開設された「緑と太陽の丘」のバラ園。現在の蜻蛉池公園の「水と緑の音楽広場」のあたりに相当する。
チョウ型遊具(初代)
年代 | 平成4年(1992年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成4年に整備された初代チョウの遊具。平成23年春、オオルリアゲハをイメージした 2代目チョウの遊具にリニューアルされた。
トンボ型遊具(初代)航空写真
年代 | 平成3年(1991年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成3年に整備された複合遊具のはしり、初代トンボの遊具の航空写真。上から見るとトンボの形になっているのがよくわかる。
トンボの遊具(初代)
年代 | 平成3年11月 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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蜻蛉池公園は平成3年6月に「子供の国」地区の一部が新規開設された。
写真は開設当初に整備され、公園の目玉となったトンボの木製遊具。
平成16年3月に、オニヤンマとシオカラトンボをモチーフとした2代目トンボの遊具にリニューアルされた。
海水浴期間中の駐車場
年代 | 昭和39年8月2日 | 出典 | (財)大阪府公園協会 |
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昭和39年(1964年)の海水浴期間の駐車場の様子。当時から多くの車で賑わっているのがよくわかる。
ボンネット型のバスが時代をあらわしている。
昭和30年(1955年)、海水浴期には利用者が多くなり、駐車場(1800㎡)を新設している。
りんくう公園開園式「くす玉」
年代 | 平成8年9月18日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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関西国際空港を臨む国際都市大阪の玄関にふさわしい公園として整備された、りんくう公園の開園式の様子。
テープカット、くす玉割りのあと、関係者による太鼓橋渡り初めが行われた。
りんくう公園開園式「鍵の受け渡し」
年代 | 平成8年9月18日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成8年9月18日、一般向けの正式な開園を前に行われた、関係者によるりんくう公園開園式の様子。
完成した公園施設の引き継ぎとして、大阪府企業局長から土木部長に紅白リボンをかけた金色の鍵が引渡された。
ツインクルパーク イン りんくう 2005 「海ボタル」
年代 | 平成17年(2005年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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2005年12月、りんくう公園で開催されたイベント「ツインクルパーク イン りんくう 2005」のひとコマ。
青い光を放つLEDライトを埋め込んだペットボトルによるイルミネーションが、夜の内海を幻想的に演出した。
ツインクルパーク イン りんくう 2005 「ミラーイルミネーショントンネル」
年代 | 平成17年(2005年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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2005年12月、りんくう公園で開催されたイベント「ツインクルパーク イン りんくう 2005」のひとコマ。
「海への道」に設置された約2000個の小さなミラーチップが作り出すきらめきが、真冬の夜空を彩った。
イカルス(りんくうタウン彫刻プロムナード)
年代 | 平成8~11年 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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「箱根 彫刻の森美術館」より借り受け、りんくうタウン彫刻プロムナードに展示されていた作品の一つ、ジュリウス・バンヒティ作「イカルス」。
大空に羽ばたこうとする彫像の後ろを飛行機が通過する。
日米桜の女王記念植樹
年代 | 平成9年5月9日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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公園開設から約半年後の平成9年5月9日、日米桜の女王によるサクラの記念植樹が行われた。
今はその樹も大きく育ち、毎年美しい花を咲かせている。
平成2年3月4日 南大阪湾岸整備事業現況写真
年代 | 平成2年3月4日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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りんくう公園の都市計画決定が行われる以前の写真。関西国際空港への連絡橋も完成していない状態。
現在りんくう公園のある場所は、まだ埋め立てが始まっていない。
上空から見たせんなん里海公園 1
年代 | 昭和36年3月 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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整備が始まる前、昭和36年(1961年)当時の様子。現在の阪南市側(ぴちぴちビーチ)。
丘陵地が海岸に張り出し、段丘地帯が発達し、狭い海浜が広がり、自然が残っている当時の海岸線がよくわかる。