米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「304」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された22棟の建物のうちの一つ。米軍宿舎として利用されていたと思われる。
米軍接収解除に伴う引継ぎ写真より「浜寺青少年の家 周辺図」
年代 | 1958年(昭和33年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和33年、米軍より大阪府に返還された施設群を描いたイラストマップ。プログラム用品貸出室(浜寺青少年の家)、浴場、野外バーベキュー施設、ファイヤー場、トーテムポールなどがあった様子が伺える。
交通遊園 ゴーカートに興味津々の子供たち
年代 | 昭和41年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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遠足で交通遊園を訪れた子供たちは、ゴーカートに興味津々の様子。後ろのグループは、引率の先生ともども男性スタッフの説明に熱心に耳を傾けている。
大阪府営 浜寺公園遊泳場パンフレット2
年代 | 昭和38年頃 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和38年頃に発行された浜寺公園プールのパンフレットより。
中心の写真には北児童遊戯場にあった噴水とチンチン電車、左側の写真には公園が進駐軍に接収されていた頃に建てられた、いわゆる「米軍ハウス」が見られる。
浜寺公園「秋の交通安全運動」 白バイ隊の演技
年代 | 昭和59年(1984年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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1984年、浜寺公園「秋の交通安全運動」で、大勢の観客が見守る中、交通安全の旗を掲げたパフォーマンスを行う大阪府警白バイ隊。
現在も浜寺公園では毎年秋に「おおさか交通安全ファミリーフェスティバル」が開催されており、カラーガード隊の演技、白バイとの記念撮影が人気を集めている。
ジャイアントスライダー建設中
年代 | 昭和60年(1985年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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開設20年を経過した浜寺公園プールでは、施設の充実を求める声にこたえ、当時、日本では20~30ヶ所程度しか設置されていなかったウォータースライダーが導入されることとなった。写真は工事中のもの。
昭和60年7月1日より「ジャイアントスライダー」としてデビューし、現在に至るまで子供たちの人気を集めている。
浜寺交通遊園開園式(航空写真)
年代 | 昭和40年5月1日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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浜寺交通遊園開園日の航空写真。昭和40年(1965年)5月1日、全国で4番目の交通遊園として公園の南端に開設された。
交通遊園は平成8年、現在の場所に移転し、平成27年(2015年)には開園50周年を迎えた。
浜寺交通遊園「おとぎの町」
年代 | 昭和40年頃 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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開園当時の交通遊園は、商業地域、住居地域、工業地域をイメージしたミニチュアの建物の中に、踏切、横断歩道、陸橋を配置し、高速道路(ゴーカート)、軌道鉄道(こども汽車)を備えたミニチュアの「おとぎの町」となっており、その中で子供たちが楽しく交通ルールを学べるようになっていた。
浜寺公園航空写真(北児童遊戯場)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された北児童遊戯場の航空写真。南海電鉄から寄贈されたチンチン電車とプラットホーム、噴水付きの徒渉池が目を引く。
チンチン電車は既に撤去されているが、プラットホームはターザンロープの出発地点として現在も使用されている。
浜寺公園航空写真(公園管理事務所分室)
年代 | 昭和45年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和45年に撮影された浜寺公園管理事務所分室周辺の航空写真。写真の左端には平成26年に撤去された横断歩道橋が、右端には駐車場が見える。昭和45年は日本で最初の国際博覧会、日本万国博覧会が開催された年でもある。
濱寺公園入口の燈籠門
年代 | 不明 | 出典 | 小泉 茂樹氏 提供 絵葉書 |
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昭和11年発行の南海鉄道株式会社編「開通五十年」に、同じ燈籠門の写真が掲載されていることから、昭和初期には完成していたことが推測されるが、詳しい年代は不明。現在の門は、昭和34年に毎日新聞社と株式会社 浜寺スイミングセンターが皇太子殿下の御成婚を記念して寄贈したもの。
濱寺公園碑と濱寺公会堂
年代 | 不明 | 出典 | 小泉 茂樹氏 提供 絵葉書 |
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明治41年竣工の濱寺公会堂は、演説会など各種集会に適した設備があり、約600人を収容することができた。
白亜の洋館では、演劇・浄瑠璃・琵琶の演奏会などが催され、娯楽場として人気を集めていた。
変形大プール
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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海をイメージして作られた変形大プールの賑わいの様子。当時、プールがまだ珍しかったこともあり、プール開設翌年の昭和39年には、約74万人の入場者数を記録した。
浜寺海水浴場の賑わい
年代 | 大正~昭和初期 | 出典 | 小泉 茂樹氏提供 絵葉書 |
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人々で賑わう浜寺海水浴場の様子。当時、海水浴場は「男子水泳場」「女子水泳場」に分かれており、写真は男子水泳場のものと思われる。
右下にある星印のマークは、現在も続く浜寺水練学校を主催していた大阪毎日新聞社の当時の社章。
濱寺公園 千両松
年代 | 年代不明 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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紀州徳川侯が参勤交代の折、この樹の下で休憩したとき、家臣に「この老松を我が家に移植する者があれば、金千両を与えよう」と言ったという逸話が残されている。現存しないが、古地図から、南児童遊戯場の周辺にあったと推測される。
濱寺停車場駅前道路を経て公園入口をのぞむ
年代 | 明治35~36年頃 | 出典 | 「明治三十五六年頃の濵寺風景繪はがき」 |
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建物がほとんどなく草地の広がる、明治35年頃の浜寺公園駅前通り。
平成25年4月現在、駅前の再整備が進み、その姿を大きく変えつつある。
府営公園120周年記念イベント「熱気球体験試乗」
年代 | 平成5年10月24日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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平成5年(1993年)は、明治6年(1873年)に最初の府営公園である住吉公園と浜寺公園が開設されて120年目にあたる事から、住吉・浜寺の2公園を会場として「大阪府営公園120周年記念イベント」が開催された。写真は浜寺公園で行われた、熱気球体験試乗の様子。
浜寺公園 南児童遊戯場
年代 | 昭和41年11月30日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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昭和41年11月30日竣工の児童遊戯場。今の南児童遊戯場にあたるが、現在シンボルとなっているタコの滑り台はまだ設置されていない。
画面左側のゾウやウサギなど、竣工時の遊具が現在も数点残っている。
浜寺公園ばら庭園開園
年代 | 平成3年4月26日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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平成2年「国際花と緑の博覧会」を契機に、公園のリフレッシュと質の向上を目指して、ばら庭園の整備がはじめられた。
平成3年(1991年)4月26日、全国的にも珍しい和風のばら庭園として開園。
平成23年(2011年)には開園20周年を記念して、バラの原画展や記念講演など様々な記念式典が行われた。
第1回泉州国際市民マラソン秋篠宮殿下御観覧
年代 | 平成6年2月20日 | 出典 | 大阪府都市整備部 |
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関西国際空港が開港された平成6年(1994年)、大浜公園をスタート・りんくう公園をゴールとする泉州国際市民マラソンの第1回大会が開催され、秋篠宮殿下御夫妻が御観覧になられた。現在、マラソンは浜寺公園がスタート地点となっている。
両殿下を始め、関係者控え室となった浜寺公園管理事務所では、公園の歴史がわかるパネルや花を飾り、お迎えした。
交通遊園「ステーションブランコ」
年代 | 昭和62年(1987年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和62年4月、浜寺公園交通遊園に設置された「ステーションブランコ」。電動ではなく自分の力で動かすもので、家族連れ、特に母親に人気があり、美容運動と健康づくりに好評を得ていたが、平成8年頃交通遊園のリニューアルに伴い撤去された。
北児童遊戯場の「たかし丸」
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場に設置されていた船の形の遊具「たかし丸」。船名の「たかし」は「高師の浜」から名付けられた。
浜寺公園は、かつて「高師の浜」と呼ばれた白砂青松の美しい海岸で、その姿は万葉集や紀貫之の歌にも残されている。
平成23年春、北児童遊戯場のリニューアルに伴い、撤去された。
北児童遊戯場のチンチン電車
年代 | 昭和39年(1964年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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北児童遊戯場で、かつて子ども達の人気を集めていたチンチン電車。写真のものは撤去されたが、現在は交通遊園で、平成13年に阪堺電気軌道株式会社より寄贈されたチンチン電車を見ることができる。この電車は、平成22年、佐野工科高校のご協力により、この写真と同じ深い緑色に塗り直され、当時の姿を取り戻した。
「白砂青松の海岸」の現在
年代 | 平成23年(2011年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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「白砂青松の海岸」の写真に写っている松が、現在も第1球技広場東に残る。第二次大戦後、浜寺公園が連合軍に接収されていた時代には、住宅建設のため2000本近くの松が伐採されたが、この松は戦中戦後を生き残り、70年後の今も往時の姿を残している。
フジカラーグランドフェスティバル
年代 | 昭和46年5月9日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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フィルムカメラ全盛期、フィルム会社と公園が共同開催する「モデル撮影会」が、浜寺をはじめ、各地の公園で開催されていた。写真は、浜寺公園で昭和46年5月9日に開催された「フジカラーグランドフェスティバル」の様子。
与謝野晶子歌碑除幕式
年代 | 昭和41年7月17日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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昭和41年、堺出身の歌人 与謝野 晶子歌碑の除幕式の様子。晶子の歌碑は堺市内で二つ目の設立で、幕を引いている女の子は晶子のお孫さん。晶子は、かつて浜寺公園にあった料亭「壽命館」での歌会で与謝野 鉄幹と出会い、後に結婚することになる。
交通遊園・子供汽車開通式
年代 | 昭和41年4月2日 | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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交通遊園の子供汽車開通式の様子。子ども達は笑顔で手を振り、花で飾られた初代子供汽車「もず号」を迎え入れる。
今も運河沿いに残るアーチ状の構造物は、かつて、こども汽車の路線が高架だった頃の駅の名残。
もず号サヨナラ運転、浪花号初運転
年代 | 昭和57年 | 出典 | 大阪府都市整備部公園課 |
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昭和57年、交通遊園開園から活躍してきた子供汽車「もず号」が老朽化のため引退、宝くじ協会から寄贈を受けて製造された「浪花号」が後継車としてやってきた。
昭和20年代の浜寺公園
年代 | 昭和20~33年頃 | 出典 | 不明 |
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第二次大戦後の昭和20年~昭和33年、浜寺公園が進駐軍の家族住宅地として利用されていた頃の園内地図。
園内には映画館、学校、教会などが建てられ、進駐軍将校とその家族が生活していた。
浜寺交通遊園パンフレットー1
年代 | 昭和41年(1966年) | 出典 | 一般財団法人 大阪府公園協会 |
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浜寺交通遊園は、昭和40年5月1日に「遊びながら交通道徳を身につける施設」としてオープンした。
交通遊園全体は、人口40万人規模の都市をモデルとして造られ、ゴーカートのコースは都市の中の高速道路をイメージしていた。
当時のゴーカート料金は1周・一人乗20円、子供汽車は大人片道50円・子供20円であった。
明治三十七八年戦役浜寺俘虜収容所幕営全景
年代 | 明治38年 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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1904年からの日露戦争時、捕虜となったロシア人捕虜が日本に移送され、浜寺公園にも2万8000人あまりが収容されていた。
日曜日には外出を許されたロシア人捕虜と地元の子ども達が、凧揚げやボール遊びをして遊んだり、パンの製造方法や西洋式泳法も教えてもらうなどの交流が行われていたとの記録が残っている。
2002年、これらを記念し、当時の小泉純一郎首相の揮毫による碑名文とロシア大統領・プーチン氏による寄文が刻まれた「記念碑」と「日露友好之像」が園内に建てられた。
浜寺水練学校
年代 | 昭和30年代 | 出典 | 毎日新聞社 |
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明治39年(1906年)、大阪毎日新聞社は海事思想の普及を目的に、海水浴場と「海泳練習所」を開設。
これが浜寺水練学校の前身となる。
戦火が激しくなった昭和20年(1945年)をのぞいて毎年開催され、生徒数は約37万人を超える。
100年を超える歴史は日本の水泳界を支える人材を輩出してきた。
浜寺公園プール群が完成した昭和38年(1963年)から、水練学校はプールへと会場を移す。
写真は、昭和30年(1955~1964年)代撮影されたもの。
庭球コート
年代 | 大正13年頃 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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新庭球場が大正13年(1924年)7月完成。写真は、その当時の様子。
庭球場は、コート2面、5千人収容の鉄骨スタンド。クラブハウス付きの国際規格。
浜寺公園海水浴場
年代 | 昭和初期 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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海水浴場は明治39年(1906年)に開設。
浜寺公園が海浜地を公園区域に編入し、供用を開始したのが、昭和4年(1929年)から。
写真タイトルが浜寺公園海水浴場となっていることから、撮影時期は昭和4年(1929年)以降と思われる。
当時の海水浴場は、他の資料によると、「水練学校」「男子水泳場」「女子水泳場」と分かれていた模様。
浜寺海水浴場 2
年代 | 大正14年 | 出典 | 堺市立中央図書館 |
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明治39年(1906年)に開設された浜寺の海水浴場はその後、夜間ナイター設備完備の「夜でも泳げる海水浴場」となっていた。
資料では、大正3年(1914年)7月、海水浴場内に「海上ステージ」「海上ブランコ」「ウォーターシュート」が設置されたとなっている。
写真は、大正14年(1925年)撮影されたもの。
浜寺公園 新出入口
年代 | 昭和初期 | 出典 | - |
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燈籠を利用した公園入口が整備されている。
当時、大阪府技師であった大屋霊城氏の著書「公園及運動場」(昭和8年/1933年)に、この燈籠門と思われる構造図が掲載されている。